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教皇、イタリア・マテーラで聖体大会閉会ミサ

教皇フランシスコは、イタリア南部マテーラで聖体大会の閉会ミサを捧げられた。

 教皇フランシスコは、9月25日(日)、イタリア南部マテーラで聖体大会の閉会ミサを共同司式された。

 聖体大会は、聖体に対する信心を高めることを目的とする集会。各国の教会が催す国内レベルの大会と、開催国を変えて4年ごとに行われる国際レベルの大会がある。

 イタリアのカトリック教会は、9月22日より、バシリカータ州のマテーラで第27回全国聖体大会を開催。そして、25日、教皇と共に捧げられた閉会ミサによって同大会は終了した。

 前日24日、イタリア中部アッシジで開催されていた経済をめぐる若者たちのミーティング「Economy of Francesco」の最終日の行事に日帰りで出席した教皇は、翌日25日にはローマからマテーラに向かった。

 この朝、マテーラのスタジアムでとり行われた聖体大会閉会ミサには、イタリア全国の教区から使節や巡礼団が参加した。

 教皇はミサの中で、この日曜日の福音朗読箇所、ルカ福音書の「金持ちとラザロ」(ルカ16,19-31)のたとえを取り上げ、説教を行われた。

 このたとえでは、ある金持ちがいつも贅沢な衣を着て、富を誇示し、遊び暮らしていた。一方、この金持ちの門前には、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、金持ちの食卓から落ちる物で空腹を満たせるものならばと思っていた。

 教皇は、このたとえの深刻な対比を前に、聖体の秘跡とキリスト教生活はわたしたちを何に招いているかを考えられた。

 まず聖体は「神を第一に置くこと」を思い出させてくれると教皇は述べ、これに対し、たとえの中の金持ちは神との関係に自らを開かず、世俗的な富を追い求め、自分の楽しみと満足だけを考えていたと指摘。

 聖体がキリスト者の生活に与える常なる課題は、「自分自身ではなく、神を拝むこと」であり、「自分の虚栄ではなく、神を中心に据えること」と話された。

 自己を崇拝するならば、わたしたちは小さな自我の中で窒息し、この世の富を崇めるならば、その富はわたしたちを捉え、奴隷化するだろう、と教皇は語られた。

 これに対して、聖体の中に現存される主イエスを礼拝するならば、新しい眼差しを授けられ、自分は神に愛され祝福された子であり、神は自分にあらゆる隷属からの解放を望まれていることに気づくだろう、と教皇は話し、「神を礼拝する者は、誰にも隷属することがない」と強調された。

 また、聖体はわたしたちを「兄弟愛」へと招いている、と述べた教皇は、「聖体の秘跡は愛の秘跡」であり、キリストは自らを割いて分け与えながら、わたしたちにも兄弟たちに同じようにすることを願われる、と話された。

 たとえの中の金持ちは、貧しいラザロの声なき叫びに気づこうともせず、贅沢に遊び暮らしていたことから、死んでから陰府でさいなまれ、アブラハムに助けを求めても、「わたしたちとお前たちの間には大きな淵がある」(参照 ルカ16,26)と答えられることになった、と教皇は語った。

 そして、今わたしたちが兄弟たちとの間に掘る溝は、後々のために掘っている溝なのである、と警告された。

 このたとえと同じストーリーが今日の世界に見られることは非常に悲しいことと教皇は述べつつ、それに対し、聖体は新しい世界の預言として、わたしたちを無関心から憐みへ、無駄から分かち合いへ、利己主義から愛へ、個人主義から兄弟愛へと招いている、と説かれた。

 

25 9月 2022, 16:57