教皇レオ14世 2025年8月28日の一般謁見 バチカン・パウロ6世ホール 教皇レオ14世 2025年8月28日の一般謁見 バチカン・パウロ6世ホール  (@Vatican Media)

「愛のために、自らを引き渡すイエス」を観想、教皇一般謁見

教皇レオ14世は、8月27日(水)、バチカンで一般謁見を行われた。

 教皇レオ14世は、8月27日(水)、バチカンで一般謁見を行われた。

 多数の参加者のため、謁見は先週と同様に、パウロ6世ホールを主会場に、同ホール前の広場、および聖ペトロ大聖堂内の計3ヶ所で行われた。

 教皇は、パウロ6世ホールでカテケーシスを行われた後、他の会場でも参加者との出会いを持たれた。

 「わたしたちの希望、イエス・キリスト」をめぐる、聖年のためのカテケーシスでは、「III.イエスの過越 4.引き渡し『だれを捜しているのか』(ヨハネ18,4)」をテーマに、教皇による講話が行われた。

 教皇によるカテケーシスの要旨は以下のとおり。

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 親愛なる兄妹姉妹の皆さん

 今日は、イエスの受難の始まりをしるす、ある場面について考察しましょう。それは、オリーブ園でイエスが逮捕された時のことです。福音記者ヨハネは、いつもの深みをもってそれを記します。恐れのあまり逃げ隠れするイエスではなく、その反対に、自ら進み出て、言葉を述べる、自由な人間の姿を描き出しています。イエスは、偉大な愛の光が差すその瞬間を、真っ向から受け止められるのです。

 「イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、『だれを捜しているのか』と言われた」(ヨハネ18,4)。イエスはすべてをご存じです。しかし、後戻りはしないと決意されました。イエスは自らを引き渡されます。それは弱さのためではなく、愛のためでした。それは、拒絶を恐れないほどの、あふれる、成熟した愛でした。イエスは捕らえられることなく、自ら捕らえさせるのです。イエスは逮捕の犠牲者ではなく、賜物の作者なのです。イエスのこの行為の中に、人類への救いの希望が具現されています。それは、最も暗い時にあっても、最後の最後まで、愛する自由を保てると知ることです。

 イエスが「わたしである」と言われた時、兵士たちは地に倒れました。これは神秘的な場面です。この表現は、聖書的な啓示において、神ご自身の御名「わたしはある」を想起させるものです。イエスは、まさに人類が不正義、恐れ、孤独を感じる場所に、神の現存が表されることを啓示されました。そのような場所でこそ、真の光は、広がる闇の圧倒を恐れず、輝くことができるのです。

 夜のただ中、すべてが崩れそうに思われる時、イエスは、キリスト教の希望は現実逃避ではなく、決意であることを示されます。このような態度は、愛のために自由に捧げられたいのちは、誰も奪うことはできないとの認識のうちに、苦しみを免れることではなく、愛において耐える力を神に願う、深い祈りがもたらすものです。

 「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい」(ヨハネ18:8)。逮捕の瞬間、イエスはご自身が助かることを気にかけておられません。ご自分の友たちが、自由に去っていけることだけをお望みです。これは、イエスの犠牲が真の愛の行為であることを示すものです。イエスは、弟子たちを自由にさせておくために、自らを捕らえさせ、投獄されました。

 イエスは、この劇的な極みの時を迎えるための準備として、人生の一日一日を生きてこられました。だからこそ、イエスはそれが到来した時、逃げようとしない強さを持っておられました。イエスの御心は、愛のためにいのちを失うことは失敗ではなく、神秘的な実りをもたらすことだとご存知でした。地に落ちた一粒の麦のように、それはただ地に落ちるのではなく、死んで、豊かに実を結ぶのです。

 イエスもまた、死と終わりだけが待つかのように見える道を前に、動揺を感じておられました。しかし、同時に、愛のために失われたいのちだけが、最後に再び見出されるのだと確信されました。ここに真の希望があります。苦しみを避けることの中にではなく、最も不当な苦しみにも、新しいいのちの芽が隠されていると信じることの中に、希望はあるのです。

 では、わたしたちはどうでしょうか。自分の人生や、計画、安心を守ろうとしながら、気がつかぬうちに孤立していることがどんなに多いでしょうか。福音の論理はそうではありません。与えるものだけが、花を咲かせ、無償の愛だけが、すべてが失われたかに見える場所に信頼を取り戻させるのです。

 マルコ福音書は、イエスが逮捕された時、裸で逃げ出した一人の若者についても記しています(マルコ14,51)。その姿は謎めいている一方で、深い印象を残します。わたしたちも、イエスに従おうと努める中で、心構えが足りず、自分の確信が剥がれるのを感じる時があります。それは福音の道を捨ててしまいたくなるような、最も困難な瞬間です。なぜなら、そうした時、愛は続け難い旅のように見えるからです。その一方で、マルコ福音書の終わりに、イエスの復活を婦人たちに告げるのは、まさに一人の若者です。彼は裸ではなく、白い衣をまとっていました。

 これがわたしたちの信仰の希望です。神のゆるしは、わたしたちの罪やためらいに妨げられません。神は、再び従おうという思いをわたしたちに取り戻させ、他者のためにいのちを捧げる力を与えてくださいます。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、わたしたちもまた、父なる神の良き計らいに自らを委ね、いただいた善に応えるように、自分の人生を生きることを学びましょう。人生を完全にコントロールする必要はありません。毎日、愛することを自由をもって選び、試練の闇にあっても、神の愛がわたしたちを支え、永遠のいのちの実を熟させてくださると知る、それだけで十分なのです。

27 8月 2025, 19:12

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