教皇一般謁見:人間は園を破壊する者でなく守る者であるように
レオ14世は、11月19日(水)、バチカンの聖ペトロ広場で一般謁見を行われた。
「わたしたちの希望、イエス・キリスト」をめぐる謁見中のカテケーシスで、教皇はこの日、「IV.イエスの復活と今日の世界の挑戦 5.復活の霊性と統合的エコロジー」をテーマに話された。
教皇によるカテケーシスの要旨は以下のとおり。
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親愛なる兄妹姉妹の皆さん
希望をテーマにしたこの聖年に、わたしたちは、キリストの復活と今日の世界の挑戦、すなわち、わたしたちが直面する課題との関連を考察しています。時には、生きておられる方、イエスも、わたしたちに問いたいことでしょう。「なぜ泣いているのか。 だれを捜しているのか」(ヨハネ20,15)と。 実際、このような課題は一人では立ち向かうことはできません。涙がわたしたちの目を洗い、眼差しを解放する時、それはいのちの賜物となるのです。
福音書記者ヨハネは、他の福音書には見られない詳細に、わたしたちの注意を向けさせます。それは、空の墓のそばで泣いていたマグダラのマリアが、すぐには復活されたイエスが分からず、園丁だと思った、ということです。実際、聖金曜日の日没時のイエスの埋葬を語る際にも、この福音書の文章は次のように大変正確です。「イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた」(ヨハネ19,40-41)。
御子への裏切り、逮捕、放棄、有罪判決、侮蔑、そして殺害によって引き起こされた、闇と光の劇的な戦いは、こうして、安息日の平安と庭園の美しさの中で幕を閉じました。その御子は「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ13,1)お方です。園を耕し、守ることは、イエスが成し遂げられた本来の使命(参照 創世記2,15)でした。十字架上のイエスの最後の言葉、「成し遂げられた」(ヨハネ19,30)は、一人ひとりに同じ使命、すなわちご自分の使命を見出すよう招きます。こうして、イエスは「頭を垂れて息を引き取られ」(ヨハネ19,30)ました。
マグダラのマリアが園丁に出会ったと思い込んだことは、まったく間違っていたわけではなかったのです。マグダラのマリアは、ヨハネの別の書で「見よ、わたしは万物を新しくする」(黙示録21,5)と語られる方から、自分の名前を再び聞き、自分の使命を理解しなければなりませんでした。教皇フランシスコは回勅『ラウダート・シ』で、観想的な眼差しの必要性を強く訴えられました。人間は園を守る者にならなければ、破壊者になってしまいます。それゆえ、キリスト教的希望は、復活し多くの実を結ぶために十字架が種のように置かれた園に留まりながら、今日全人類が直面する課題に応えるのです。
天国は失われたのではありません。それは再び見出されたのです。このように、イエスの死と復活は、統合的エコロジーの霊性の基礎をなします。この基礎の外では、信仰の言葉は現実に対し影響力を失い、科学の言葉は心の外に留まってしまいます。「エコロジカルな文化は、汚染、環境破壊、天然資源の枯渇といった喫緊の問題に対する一連の部分的応急措置に矮小化できるものではありません。抵抗の姿勢を形作る、異なる視点、考え方、方針、教育プログラム、ライフスタイル、そして霊性が必要です」(参照『ラウダート・シ』111)。
わたしたちがエコロジー的回心について語るのはそのためです。キリスト者は、イエスに従うために必要な方向転換から、この回心を切り離すことはできません。イエスは、復活の朝、マグダラのマリアに話しかけることで、そのことを証しされました。回心を重ねることによってのみ、わたしたちはこの涙の谷から新しいエルサレムへと移ることができるのです。この移行は、心の中で始まります。それは霊的なものであり、歴史を変え、わたしたちを公に取り組ませ、今この瞬間から人々や被造物を狼の欲望から守るための連帯を活性化させます。それは、神の小羊である牧者の名と力のもとに行われるのです。
こうして、教会の息子たち、娘たちは、今日、貧しい人々や地球の叫びに耳を傾け、心に触れた無数の若者や善意の人々と出会うことができます。被造物とのより直接的な関係を通じて、多くの分裂を超えた新たな調和を求める人々は数多くいます。その間にも、「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示し、昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送り、話すことも、語ることもなくても、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう」(参照 詩編19,1-4)のです。
聖霊が、声なき者の声に耳を傾ける力を与えてくださいますように。こうして、わたしたちはまだ目に見えないものを、すなわち、それぞれの使命を受け入れ、果たすことによってのみ到達できるあの園、あの楽園を見ることができるでしょう。
