教皇レオ14世、聖年の巡礼者のための謁見 2025年11月8日 バチカン・聖ペトロ広場 教皇レオ14世、聖年の巡礼者のための謁見 2025年11月8日 バチカン・聖ペトロ広場  (@Vatican Media)

教皇「希望を持つとは、証しすること」聖年の巡礼者に

教皇レオ14世は、11月8日(土)、聖年の巡礼者のための謁見を行われた。

 教皇レオ14世は、11月8日(土)、聖年の巡礼者のために、バチカンの聖ペトロ広場で、週末の謁見を行われた。

 「希望」をテーマにした聖年のカテケーシスで、教皇は「希望を持つとは、証しすること。イシドール・バカンジャ」をテーマに講話された。 

  聖書朗読に続く、教皇の講話の要旨は以下のとおり。

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 聖書朗読

「あなたがたが召された時のことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵のある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。」(コリントの信徒への手紙一 1,26-27)

 教皇の講話

 

 聖年の希望は、神の驚きから生まれます。神は、わたしたちが慣れ親しんだ自分たちのあり方とは、異なるあり方をお持ちです。聖年は、その違いを認識し、現実の生活に反映させるようにわたしたちを促します。だからこそ、聖年は恵みの年であると言えるでしょう。わたしたちは変わることができるからです。主の祈りを捧げるとき、わたしたちはいつも、「天に行われるとおり地にも」と祈っています。

 聖パウロはコリントの信徒への手紙で、彼らの間では、すでに地は天に似たものになり始めたことに気づくよう呼びかけています。パウロは彼らに、自分たちの召命を考え、神が、決して出会うことのなかったであろう人々を、どのように近づけたかを考えるよう招いています。よりつつましく、無力な者たちが、今や、尊い、重要な存在になったのです(参照 1コリント1,26-27)。神の基準は、一番最後の者たちから始まります。コリントにとって天地を揺るがすようなこの教えは、世界を破壊するのではなく、目覚めさせるものでした。パウロが証しする十字架の言葉は、良心と一人ひとりの尊厳を呼び覚ますものでした。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、希望を持つとは、証しすることです。すでにすべては変わり、何一つ前とは同じではないと証しすることです。こうしたことを考えながら、今日は、アフリカにおいてキリスト教的希望を証しした人について話したいと思います。それは、1994年に列福され、コンゴの信徒たちの保護者となった、イシドール・バカンジャです。

 福者イシドールは1885年、ベルギー領コンゴに生まれました。彼の町には学校がなかったため、学校に行くことはできませんでした。その代わりに石積職人の見習いになりました。そして、カトリックの宣教師たち、トラピスト会の修道士たちと友だちになりました。修道士たちは彼にイエスについて語り、彼はキリスト教教育を受け入れ、20歳の頃、受洗しました。その時から、彼の証しはますます輝きを増していきました。希望を持つとは、証しすることです。新たないのちを証しする時、困難にあっても光は輝きを増していくのです。

 イシドールは、ヨーロッパ人の雇用主のもとで農場労働者として働いていました。この主人は、イシドールの信仰と誠実さに対し我慢ができない、良心の呵責のない人物であり、キリスト教と、植民者たちの虐待から先住民たちを守っていた宣教師たちを憎んでいました。イシドールは聖母マリアの像が刻まれたスカプラリオを首にかけ、希望を失うことなく、あらゆる虐待や拷問に耐えていました。希望を持つとは、証しすることなのです。イシドールは、トラピスト会の神父たちに、恨みを抱かないようにと告げ、それどころか、自分をこのような状態にした者のためにあの世で祈ると約束しながら、亡くなりました。

 これこそ、十字架の言葉です。それは悪の鎖を断ち切る、生きた言葉です。それは高慢な者を当惑させ、権力者を王座から引き下ろす、新たな力です。こうして希望が生まれます。

 グローバル・ノースの古い教会は、正義と平和の王国、神の御国に向かって共に歩むように励ます、こうした証しを、若い教会からしばしば受け取っています。特にアフリカは、この回心をわたしたちに求め、そして、多くの若い信仰の証人をわたしたちにもたらすことで、それを実現するのです。希望を持つとは、この地を本当に天国に似たものにするのは可能だと証しすることです。そして、これこそが、聖年のメッセージなのです。

08 11月 2025, 16:28

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