レオ14世、45年前のヨハネ・パウロ2世狙撃事件現場で祈る
教皇レオ14世は、5月13日(水)、バチカンの聖ペトロ広場で一般謁見を行われた。
この日は、聖ヨハネ・パウロ2世への狙撃事件から45年を記憶した。
1981年5月13日、ヨハネ・パウロ2世は、一般謁見の会場である聖ペトロ広場で、信者たちの間を野外謁見用のオープンカーでめぐっている時に銃撃を受けた。教皇は腹部に重傷を負ったが、幸いにも一命をとりとめた。
この事件の日がファティマの聖母の日であったことから、「聖母の母なる手」に救われたと感じていた聖ヨハネ・パウロ2世は、回復後の1982年を最初に、1991年、2000年に、ポルトガル・ファティマを巡礼している。
聖ペトロ広場の右柱廊近くの狙撃現場には、事件から25年後の2006年、この出来事を記憶するための石板が地面にはめ込まれた。
その事件からちょうど45年が経過したこの水曜日、教皇レオ14世はバチカンの広場で開催された一般謁見で、会場を特別車「パパモービル」で一巡する途中、右柱廊前で車を降り、ヨハネ・パウロ2世の狙撃事件現場に向けて歩まれ、石板の前で祈りを捧げられた。祈りの後、教皇は片膝をついて、石板に触れられた。
続いて、レオ14世は謁見中のカテケージスで、「第二バチカン公会議の諸文書」をテーマに、『教会憲章』(Lumen gentium)の考察を続けながら、教会の象型としてのマリアを取り上げられた。
レオ14世は特に英語によるカテケージスの冒頭、次のように話された。
「今日、5月13日は、ファティマの聖母マリアを記念します。45年前のこの日、まさにここ聖ペトロ広場での一般謁見の最中、聖ヨハネ・パウロ2世は、暗殺未遂事件に遭われ、聖母のご保護のおかげでいのちを失わずにすみました。そのことについて教皇ご自身も様々な形で証言されています。こうしたことから、今日のカテケージスでは、「教会の象型としてのおとめマリア」を取り上げ、「Totus tuus(すべてはあなたのもの)」をモットーとされたわたしの聖なる前任者に捧げたいと思います」。
そして、教皇は、講話の中で、教会の完全な象型にして、教会の成員、また母である、聖母マリアについて話された。
教皇レオ14世による5月13日の一般謁見中のカテケージス(イタリア語)は、以下のとおり。
**********
親愛なる兄弟姉妹の皆様。おはようございます。ようこそおいでくださいました。
第二バチカン公会議は『教会憲章』(Lumen gentium)の最後の章(第8章)をおとめマリアにささげることを望みました(『教会憲章』52-69参照)。マリアは「教会の卓越したまったく比類なき成員として、さらにその信仰と愛においては、教会の典型、もっとも輝かしい模範として敬われ」(同53)ています。このことばは、肉のうちに来られた神の子を聖霊の働きのもとに受け入れ、産んだマリアのうちに、教会共同体全体の〈模範〉、優れた意味での〈成員〉、そして母を見いだすことができることを理解するようにわたしたちを促します。
自らのうちに完全な形で訪れた恵みのわざによって自らを形づくらせ、信仰とおとめの愛をもっていと高き方のたまものを受け入れたマリアは、教会全体が求められる姿の完全な〈模範〉であり、主のことばによって造られた被造物であり、聖霊の働きに忠実に従いながら生まれた神の子らの母です。さらに、神の聖なる民の交わりにおいて神の神秘への無条件の開きの完全な形を示す、優れた意味での信仰者であるマリアは、教会共同体の卓越した〈成員〉です。最後に、わたしたちの間に来られた永遠に愛される方によって愛された、御子における子らを生み出すマリアは、教会全体の〈母〉です。だから教会は、子としての信頼をもって、聞き入れられ、守られ、愛される確信のうちに、マリアに向かうことができるのです。
わたしたちは、おとめマリアのこれらの特徴全体を表現するために、マリアについて〈神秘のイコンである女〉と語ることができます。〈女〉ということばによって、メシアの母となるという特別な経験を生きる恵みを与えられた、このイスラエルの若い娘の歴史的な具体性が明らかにされます。〈イコン〉という表現によって、マリアのうちに下降と上昇という二つの動きが実現することが強調されます。マリアのうちに、神の無償の選びと、マリアの信仰による自由な同意が輝き出るからです。それゆえマリアは〈神秘〉のイコンである女です。〈神秘〉とは、かつて隠されていたが、イエス・キリストにおいて完全に啓示された、神の救いの計画です。
公会議は、あがないのわざにおいておとめマリアに与えられた特別な位置について明確な教えを残しました(『教会憲章』60-62参照)。公会議は、救いの唯一の仲介者はイエス・キリストであること(一テモ2・5-6参照)、至聖なる母は「キリストのこの唯一の仲介を決して曇らせたり弱めたりするものではなく、かえってその力を示すものである」(『教会憲章』60)ことを思い起こしました。同時に、「神のみことばの受肉とともに永遠から神の母となるべく予定されていた聖なる処女(おとめ)は、〔……〕人々の超自然的いのちを回復するため、従順、信仰、希望、燃える愛をもって救い主のわざにまったく独自なしかたをもって協力した。こうしてマリアは、恵みの面において、われわれにとって母となった」(同61)のです。
おとめマリアのうちに教会の神秘も反映されています。神の民はマリアのうちに、自らの起源、模範、祖国が示されているのを見いだします。教会は主の母のうちに自らの神秘を観想します。それは、マリアのうちに、教会がそうあるべく召されているおとめの信仰と、母としての愛と、花嫁としての契約の模範を見いだすからだけでなく、何よりも、教会がマリアのうちに自らの予型、すなわち、教会がそうあるべく招かれた理想の姿を認めるからです。
ご覧のとおり、『教会憲章』にまとめられたおとめである母に関する考察は、わたしたちに、教会を愛し、教会のうちに神の国の実現に仕えることを教えます。神の国は、到来しつつあるとともに、栄光のうちに完全に実現されるのです。
今、おとめであり母であるマリアという最高の模範によって問いかけていただこうではありませんか。そして、マリアの模範を通してわたしたちに問われていることにこたえられるよう、マリアがその執り成しによって助けてくださるように願いたいと思います。わたしは謙遜な信仰を実践し、教会の成員として活動しているでしょうか。わたしは神がその限りない愛にこたえるために与えてくださった契約の共同体を教会のうちに見いだしているでしょうか。わたしは神から与えられた牧者に従いながら、教会の生きた部分であることを感じているでしょうか。わたしは教会の模範であり、優れた成員であり、母であるマリアに目を向け、御子の忠実な弟子となるための助けをマリアに願っているでしょうか。
姉妹兄弟の皆様。マリアの上に降り、わたしたちが謙遜と信頼をもって呼び求める聖霊が、この驚くべき現実を完全に生きる恵みを与えてくださいますように。『教会憲章』を深く学んだ後、おとめである方に、聖なる母である教会への愛がわたしたちのうちで成長する恵みが与えられることを願おうではありませんか。アーメン。
(カトリック中央協議会訳)
