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青年の祝祭:教皇ミサ「人生の充足は、受け入れと分かち合いにある」

教皇レオ14世は、「青年の祝祭」の最終日、ローマ郊外トル・ヴェルガータで、世界の若者たちと記念のミサを捧げられた。

 2025年の聖年の中で、最大規模のイベントとして一週間にわたり開催された「青年の祝祭」は、8月3日(日)、最終日を迎えた。

 2日午後、ローマ郊外トル・ヴェルガータで前晩の祈りに参加し、会場で夜を明かした若者たちは、この朝早くから「青年の祝祭」の閉会行事となる教皇ミサのために備えた。

 レオ14世は、前日同様、ヘリコプターで会場に到着。

 ミサ開始前、中央のステージから、「皆さんおはようございます」と6ヶ国語で挨拶された教皇は、「まもなく、キリストが聖体においてご自身の現存そのものをわたしたちに残してくださった偉大な儀式を始めます。神の祝福が皆さんにありますように。そして、互いにとって、また各自にとって真に忘れがたい機会になりますように。キリストの教会として共にある時、わたしたちはイエス・キリストに従い、共に歩み、共に生きるのです」と参加者に話しかけられた。

 そして、教皇は、世界から集った青年信者およそ100万人、司教約450人、司祭約7000人と一緒に、記念のミサを捧げられた。

 ミサの説教で教皇は、人間の限界や過ぎ去る物事の有限性を語る第一朗読の「コヘレトの言葉」(1,2、2,21-23)や、朝が来れば花を咲かせ、夕べには枯れる草の移ろいやすさを人間のそれと重ねる答唱詩編(詩編90,5-6)を示しながら、これらが与える強いイメージを「タブー」として拒絶することなく、この人間のもろさを、むしろ素晴らしさの一部として受け入れていくよう助言。

 美しい花畑を想像するよう教皇は招きつつ、これらの草花は、か弱く、枯れ、折れ曲がる運命にあっても、すぐその後に他の草花が替わりに生え出で、先にあった草花はその栄養となり、こうして野原は絶えず新たにされ、生き続けると指摘。

 わたしたちの存在も、このように恵みと愛のうちに絶え間なく新たにされるためにあり、それゆえに、常にいかなる被造物も与えることのできない、「さらなる高み」を求め、この世のいかなる飲み物もいやせない「大いなる渇き」をおぼえ続ける、と話された。

 神と無限に対する人間の渇望を語るものとして、教皇は、神を深く探求した聖アウグスティヌスの「あなた(主)はわたしの内におられたが、わたしは外にいた。そこでわたしはあなたを探していた」という言葉を紹介。

 また、「単純かつ即席の回答のない、しかし、旅にいざない、自らを超え、さらなる先へ進むように、[…]飛翔のために離陸するようにと招く、大いなる問いに取り組むべく、誰もが召されている。だから、わたしたちが内面に渇きや、不安、不完全さ、意味や未来への渇望を感じても、驚いてはいけない」という教皇フランシスコの言葉を思い起こされた。

 レオ14世は、「真の幸福とは?」「人生で本当に正しいこととは?」「虚しさという沼から自分を救い出してくれるものは?」という、人々の心の中にある重要な問いを改めて提示。

 人生の充足は、蓄えや所有によるのではなく、福音書が言うように、受け入れと分かち合いにあると喜びをもって知ることによる、と強調された。

 教皇は、現実や世の中のすべてのことに意味を見出すために、眼差しを上げ、「上にあるものに心を留める」(コロサイ3,2)ように招くと同時に、愛のうちに神と兄弟と一致するよう努め、キリストのような、優しさ、善良さ、謙遜、柔和、寛容、ゆるし、平和の感情を自分たちの心に育む必要を説かれた。

 「わたしたちの希望、それはイエスです」と述べたレオ14世は、「自らの人生を何か素晴らしいものにしたい、自分自身と社会をより良いものに、より人間的で兄弟愛に満ちたものにしたい、という望みを引き起こすのは」イエスである、と、25年前の聖年の際、ここトル・ヴェルガータで若者たちに呼びかけた聖ヨハネ・パウロ2世の言葉を回想。

 常にイエスと一致し、イエスとの友情に留まりながら、どこにても、大いなるもの、聖なるものを求めるならば、皆さんの中に、まわりに、福音の光が日々広がるのを見ることができるでしょう、と青年たちを励まされた。

03 8月 2025, 14:51