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教皇レオ14世 2025年8月13日の一般謁見 バチカン・パウロ6世ホール 教皇レオ14世 2025年8月13日の一般謁見 バチカン・パウロ6世ホール  (@Vatican Media)

「希望とは、神は決して裏切ることがないと知ること」教皇一般謁見

教皇レオ14世は、8月13日(水)、バチカンで一般謁見を行われた。

 教皇レオ14世は、8月13日(水)、バチカンで一般謁見を行われた。

 ローマはここ数日厳しい暑さに見舞われ、一般謁見の会場は、当初予定されていた聖ペトロ広場から、パウロ6世ホールと聖ペトロ大聖堂の2か所に変更された。

 参加者多数のために、一部の人々は、パウロ6世ホール前の広場に集い、設置された大型スクリーンに見入りながら教皇のカテケーシスに耳を傾けた。

 教皇は屋外の巡礼者たちを気遣われ、メイン会場のパウロ6世ホールでの謁見開始前と終了後に、これらの人々のもとを訪れ、挨拶と祝福をおくられた。

 続いて、教皇は聖ペトロ大聖堂に向かわれ、ここでも巡礼者らとの交流のひと時を持たれた。

 この日、謁見中の「わたしたちの希望、イエス・キリスト」をめぐるカテケーシスでは、「III.イエスの過越 2.裏切り『まさかわたしのことでは』(マルコ14,19)」をテーマに、教皇による考察が行われた。

 教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 イエスの最後の日々の歩みを追いながら、福音を学び舎とするわたしたちの旅を続けましょう。今日は、親密かつ緊張感のみなぎる、深い真理に満ちた場面を考察したいと思います。過越の食事の時、イエスは十二人の使徒のうちの一人が自分を裏切ろうとしていると明らかにされました。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」(マルコ14,18)。

 これは強い言葉です。イエスがそれを言われたのは、非難のためではなく、愛が真実のものであるからには、真実なしではありえないことを示すためでした。少し前、食事のために入念に整えられた高間は、突然、沈黙の悲しみに包まれました。それは、問いや、疑い、脆さからなる悲しみでした。それは、わたしたちにも経験のある悲しみです。最も大切にしている絆に裏切りの影が差す時の悲しみです。

 それにもまして、これから起きるであろうことを語るイエスの口調は驚くべきものでした。イエスは声を荒げたり、指差したり、ユダの名前を口にすることもありませんでした。それは、誰をも自問に招く話し方でした。そして、まさにそのとおりになりました。聖マルコはこう記しています。「弟子たちは心を痛めて、『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた」(マルコ14,19)。

 親愛なる友人の皆さん、「まさかわたしのことでは」というこの問いは、おそらくわれわれが自分自身に向けることができる、最も誠実な問いの一つでしょう。これは素朴な者の問いではなく、自らの脆さを知った弟子が発する問いです。それは、罪を犯した者の叫びではなく、愛したいと望みながらも、傷つけることもできると知る者のつぶやきです。そして、この自覚のもとに、救いの道は始まるのです。

 イエスは、辱めのために告発するのではありません。イエスが真実を言われるのは、救うことを望まれるからです。救われるためには、感じなければなりません。自分も関係していること、すべてにもかかわらず愛されていること、悪は現実にあっても、それが勝利することはないことを感じなくてはなりません。深い愛の真理を知った者だけが、裏切りによる傷も受け入れることができるのです。

 弟子たちの反応は、怒りではなく、悲しみでした。憤るのではなく、悲しみを感じていました。それは、自分も関係あるかもしれないという、実際の可能性から生じる悲しみです。まさにこの悲しみを真摯に受け止めるならば、それは回心の場となるのです。福音は、悪を否定することを教えず、生まれ変わるための痛みを伴う機会としてそれを認識するように教えます。

 そして、イエスはわたしたちを不安にさせ、考えさせるような言葉を加えます。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」(マルコ14,21)。これは厳しい言葉です。しかし、その意味をよく理解する必要があります。これらの言葉は呪いではなく、むしろ悲しみの叫びなのです。それは、ギリシャ語においては、嘆きや、率直で深い憐みの叫びとしての響きを持っています。

 わたしたちは人を裁くことに慣れています。しかし、神は苦しむことを受け入れられるのです。悪を見ても、復讐されず、悲しまれるのです。「生まれなかった方が、よかった」という言葉は、超越論的な否認ではなく、わたしたちそれぞれが認めることのできる真理です。もしわたしたちが自分たちを創造した愛を否定し、その裏切りによって自分自身に対し不誠実になるなら、わたしたちはこの世に生まれた意味を本当に見失い、救いから自らを除外してしまうのです。

 しかし、まさに最も闇が深いところで、光は消えることなく、むしろ、輝き始めます。なぜなら、自分たちの限界を認めてこそ、そして、キリストの苦しみに触れてこそ、わたしたちはようやく生まれ変わることができるからです。信仰はわたしたちを罪の可能性から免れさせはしませんが、そこから抜け出すための道をいつも与えてくれます。その道とはいつくしみの道です。

 イエスはわたしたちの弱さを前に驚かれることはありません。いかなる友情も裏切りの危険から逃れられないことをよくご存知です。それでも、イエスは信頼し続けます。ご自分の弟子たちと食卓を囲み続けられます。自分を裏切る者に対しても、パンを裂くことを諦めません。これが神の沈黙の力です。たとえご自分がただ一人残されることをご存知でも、神が愛の食卓を離れることはありません。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、今日、わたしたちも真摯に自問しようではありませんか、「まさかわたしのことでは」と。自分に対するとがめを感じるためではなく、真理のための場所を心にあけるためです。救いはここから、神における信頼を裏切るのは自分自身かもしれないという自覚から、また同時に、その信頼を受け入れ、守り、新たにするのも自分自身であるという自覚から始まるのです。

 つまるところ、これこそが希望なのです。それは、たとえわたしたちが過ちを犯しても、神は決して裏切ることがないと知ることです。たとえわたしたちが裏切ることがあっても、神はわたしたちを愛し続けられます。謙遜で、傷つき、常に誠実なこの神の愛にたどり着くことができるならば、そこでわたしたちは真に生まれ変わることができるのです。そして、もう裏切り者としてでなく、常に愛された子として生き始めるのです。

13 8月 2025, 17:32

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