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教皇レオ14世 2025年8月20日の一般謁見 バチカン・パウロ6世ホール 教皇レオ14世 2025年8月20日の一般謁見 バチカン・パウロ6世ホール  (@Vatican Media)

「真のゆるしとは、先立って与えられる無償の贈り物」教皇一般謁見

教皇レオ14世は、8月20日(水)、バチカンで一般謁見を行われた。

 教皇レオ14世は、8月20日(水)、バチカンで一般謁見を行われた。

 参加者多数のため、巡礼者らは、パウロ6世ホールを主会場に、大型スクリーンを備えた同ホール前の広場と聖ペトロ大聖堂内にも集った。

 教皇は、パウロ6世ホールで行われた「わたしたちの希望、イエス・キリスト」をめぐるカテケーシスで、「III.イエスの過越 3.ゆるし『この上なく愛し抜かれた』(ヨハネ13,2)」をテーマに話された。

 カテケーシスに続き、教皇は世界各国の巡礼団に挨拶をおくられた。英語の挨拶では、日本を含む様々な国々からの参加者に歓迎の意を述べられた。

 この謁見には、「天正遣欧少年使節ゆかりの地首長会議」の海外派遣事業として、このたびイタリアに派遣された中学生たちのグループが参加。

 中学生たちは、天正遣欧少年使節のメンバー(伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ)の出生地、およびゆかりの地である、長崎県の西海市・南島原市・大村市・雲仙市・諫早市・波佐見町、宮崎県の西都市、熊本県の天草市の8自治体から、各2名ずつ、計16人が派遣され、天正の使節のイタリアでの足跡をたどることになっている。

 また、日本の中学生たちのこの訪問と連動し、千々石ミゲルの墓所の調査報告のため、千々石ミゲル出生地の雲仙市関係者と、千々石ミゲルの子孫で同墓所調査プロジェクト代表の浅田昌彦氏らのグループがバチカンを訪れた。

 一行は、教皇一般謁見後、バチカン関係者らと面会。バチカン図書館では、館長マウロ・マントバーニ師から、シスト5世の戴冠式の行列風景の中に天正遣欧少年使節の姿がフレスコ画に描かれている、サローネ・システィーノなどの案内を受ける一方、ミゲルの墓所調査について紹介。その報告書を渡すと共に、今後の協力を願った。

 さらに、この教皇一般謁見には、イタリアのリエーティを中心に開催されるサッカーのユース・チーム(under 17)による国際大会「スコピーニョ・カップ」に参加する世界各国のチームが団体で訪れた。イタリア遠征中で、同大会に参加するベガルタ仙台ユースの選手たちもこの謁見に出席。他チームと共に、教皇レオ14世の励ましを受けた。

 同日の謁見中の、教皇レオ14世によるカテケーシス、「わたしたちの希望、イエス・キリストIII.イエスの過越 3.ゆるし『この上なく愛し抜かれた』(ヨハネ13,2)」の要旨は以下のとおり。

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 親愛なる兄妹姉妹の皆さん

今日は、福音における最も驚くべき、光に満ちた行為の一つについて考えたいと思います。それは、最後の晩餐で、イエスが自分を裏切ろうとしている者に、浸したパン切れを差し出す瞬間です。

 福音記者聖ヨハネは、深い霊的な感性をもって、その瞬間を次のように語ります。「イエスは […]ご自分の時が来たことを悟り、弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食の時であった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」(ヨハネ13,1-2)。「この上なく愛し抜かれた」。これがキリストの御心を理解するための鍵です。それは、拒絶や、失望、忘恩を前にしても、とどまることのない愛でした。

 イエスは、その時が来ることをご存知です。しかし、イエスはそれを忍耐のうちに受け入れるのではなく、自らそれを選ばれます。イエスご自身が、ご自分の愛が、裏切りという、最も苦痛を伴う傷を通過しなければならないことを知っておられます。そして、身を引くことも、非難することも、自分を守ることもせず、… イエスは愛し続けられるのです。弟子たちの足を洗い、パン切れを浸し、差し出されます。

 「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」(ヨハネ13,26)。この単純で謙遜な行為を通して、イエスは自らの愛を貫かれます。それは、これから起きるであろうことを無視しているためではなく、むしろそれをはっきりと予見されているためです。イエスは、たとえ人が悪に迷い込んでいても、その人の自由に柔和な行為の光は届くと知っておられました。なぜなら、真のゆるしとは、悔い改めを待たずして、無償の贈り物として、それが受け入れられるよりも前に、先立って与えられるものだからです。

 残念ながら、ユダはそれを理解しませんでした。福音書はこう述べています。ユダがパン切れを受け取ると、「サタンが彼の中に入った」(ヨハネ13,27)。この一節は衝撃的です。まるで、愛がその最も無防備な顔を見せた直後に、その時まで隠れていた悪が姿を現したかのようです。兄弟姉妹の皆さん、まさにそれゆえに、この一切れはわたしたちの救いなのです。なぜなら、神はわたしたちに近づかれるために、たとえ、わたしたちが神を拒む時でさえも、実にありとあらゆる力を尽くしてくださるということだからです。

 ここでゆるしはそのすべての力を見せ、希望はその具体的な姿を現します。それは忘却でも、弱さでもありません。それは、相手を愛し抜きながらも、その人を自由にさせる力です。イエスの愛は、苦しみという真実を打ち消すものではありません。しかし、それは悪の勝利を決して許しません。これが、イエスがわたしたちのために行われる神秘です。そして、わたしたちもまた、時にこの神秘に参与するように招かれているのです。

 いったいどれだけの関係が壊れ、どれほどのストーリーが複雑化し、どれだけの言われなかった言葉が宙に残っているでしょうか。それでも、福音は、すべてが取り返しのつかないほど傷ついて見える時でさえも、愛し続ける方法が常にあることを示してくれます。       

 ゆるすとは、悪の否定を意味せず、それがさらなる悪を生むことを防ぐことです。それは、何もなかったことにするわけではありません。遺恨によって未来が定められることがないように、できる限りの努力を尽くすということです。

 ユダが高間を出て行った時、それは「夜であった」(ヨハネ13,30)とあります。しかし、イエスはユダが出ていったすぐ後にこう言われました。「今や、人の子は栄光を受けた」(同13,31)。夜はまだそこにありますが、すでに一つの光が輝き始めています。光が輝くのは、キリストが最後まで忠実を貫き、その愛は憎しみよりも強いからです。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、わたしたちも、辛く、疲れ切った夜を過ごすことがあります。それは魂の夜、失望の夜、誰かに傷つけられ、裏切られた夜です。そうした時、閉じこもり、自らを守り、反撃したい誘惑にかられます。

 しかし、主はわたしたちに希望があること、別の道があることを教えてくださいます。われわれに背を向ける人にも、一切れのパンを差し出すことができること、信頼の沈黙で答え、愛をあきらめずに尊厳をもって進んで行けることを教えてくださいます。

 理解されていない、見捨てられた、と感じていても、ゆるすことができる恵みを、今日、願いましょう。なぜなら、まさにその時、愛は頂点に達するからです。イエスが教えてくださるように、愛するとは、相手を自由にすることです。たとえそれが、裏切る自由であってもです。その傷つき、失われた自由でさえも、闇の欺きから取り戻し、善の光に返せると、信じ続けることです。

 ゆるしの光が、心の最も深い傷の間から差し込む時、わたしたちは決して何一つ無駄ではなかったと理解するのです。たとえ相手が受け入れなくても、たとえ無駄に思えても、ゆるしはそれを与える者を解放します。

 イエスは、パンを差し出すという単純な行為を通し、あらゆる裏切りが、− それがより大きな愛のための場所として選ばれるならば −  救いの機会となることを示しています。イエスは、われわれの中にある最も真であるもの、すなわち、愛する力を悪が消さないようにと防ぎながら、悪に屈せず、善をもって勝利されるのです。

 

 

20 8月 2025, 22:03

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