十字架上のイエスの叫びを観想、教皇一般謁見
教皇レオ14世は、9月10日(水)、バチカンの聖ペトロ広場で一般謁見を行われた。
この日、教皇は「わたしたちの希望、イエス・キリスト」をめぐるカテケーシスで、「III.イエスの過越 6.死『イエスは大声を出して息を引き取られた』(マルコ15,37)」をテーマに講話された。
教皇によるカテケーシスの要旨は以下のとおり。
**********
親愛なる兄妹姉妹の皆さん
今日は、イエスのこの世における生涯の頂点、すなわち、十字架上の死を観想しましょう。福音書は、信仰の知性をもって観想すべき、大変貴重なある詳細を証ししています。それは、イエスは十字架上で沈黙のうちには亡くならなかったということです。イエスは、燃え尽きる灯し火のようにゆっくりと息を引き取られたのではなく、叫びと共に人生を閉じられました。「イエスは大声を出して息を引き取られた」(マルコ15,37)。その叫びには、苦しみ、委託、信仰、奉献のすべてが込められていました。それは、屈する肉体の声であるだけでなく、自らを委ねる人生の究極のしるしでした。
イエスは、この叫びの前にある問いを発しておられます。それは、人が発しうる最も苦しみに満ちた問いの一つでした。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。これは詩編22の初めの一節です。しかし、イエスの唇にはそれは唯一特別な重みを帯びていました。御父との常に親密な交わりを生きてきた御子は、今や、沈黙と、不在、深淵を体験されていたのです。それは信仰の危機ではありません。自らを与え尽くす愛の最後の段階でした。イエスの叫びは、絶望ではありません。それは誠実さ、極限まで突き詰めた真理、すべてが沈黙しても変わらぬ信頼です。
その時、空は暗くなり、神殿の垂れ幕は真二つに裂けました(参照 マルコ15,33、38)。それはあたかも被造物自体がその苦しみに参与すると同時に、新しい何かを啓示しているかのようです。神はもはやベールの後ろに隠れることなく、その御顔は今や十字架上のイエスに完全に見ることができます。その傷ついた人間の中に、最も偉大な愛が表れています。わたしたちはそこに、遠く離れた存在ではなく、われわれの苦しみをとことんまで共に貫いてくださる神を認めることができるのです。
異教徒でありながらも、百人隊長はそれを理解しました。イエスの説教を聞いたためではありません。イエスがあのように息を引き取られたのを見たためでした。「本当に、この人は神の子であった」(マルコ15,39)。これは、イエスの死後、最初に行われた信仰告白でした。それは、風の中に消え去らない、心に触れる叫びがもたらしたものでした。わたしたちは、言葉で表せないことを、声で表すことがよくあります。胸がいっぱいの時、人は叫びます。これはいつも弱さのしるしというわけではありません。それは、深い人間的な行為でもあり得るのです。
わたしたちは、叫びを何か取り乱した、がまんすべものと考えがちです。福音は、わたしたちの叫びに無限の価値を与え、それが嘆願、抗議、願望、委託であり得ることを思い出させます。それどころか、それはもう言葉すらない時の、祈りの究極の形でもあり得るのです。あの叫びの中に、イエスはご自分に残されたすべてを、すなわちご自身のすべての愛とすべての希望を込められたのです。
そうです、叫びの中には、決して諦めることのない希望も含まれているからです。人は、まだ誰かが聞いてくれるかもしれないと思う時に叫ぶのです。叫ぶのは絶望のためではなく、願望のためです。イエスは御父に「逆らって」ではなく、御父に「向かって」叫ばれました。たとえ沈黙の中にあっても、イエスは御父がそこにおられることを確信していました。こうしてイエスは、すべてが失われたかのように見える時でも、わたしたちの希望は声を上げることができるのだと、示してくださったのです。
このように、叫ぶことは、霊的な行為となりました。それは単にわたしたちの誕生における最初の行為―この世に産声を上げて生まれる時に―であるのみならず、生き残っていくための方法でもあるのです。人は苦しむ時だけでなく、愛する時、呼ぶ時、祈る時にも叫びます。叫ぶことは、わたしたちがここにいること、沈黙のうちに消え去りたくないこと、まだ何かを差し出せることを伝えています。
人生の旅路においては、すべてを内に秘めることで、次第に疲れ切っていくことがあります。イエスは、それが誠実で、謙遜で、御父に向かうものである限りは、叫ぶことを恐れる必要はないと教えられます。それが愛から生まれるものならば、叫びは決して無駄ではありません。そして、叫びが神に届くなら、決して無視はされません。叫びは、冷笑主義に陥らず、別の世界は可能だと、信じ続けるための道です。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、究極の試練が訪れた時の、希望の叫びを、主イエスから学びましょう。傷つけるためではなく、信頼するための叫び、誰かに対してどなるのではなく、心を開くための叫びを。わたしたちの叫びが正真のものであるならば、それは新しい光、新たな誕生への入り口となるでしょう。イエスにとってそうであったように、すべてが終ったかのように見える時に、実は救いは始まりかけています。わたしたちの人間性の苦しめる声は、神の子らの信頼と自由をもって表される時、キリストの声と一致しながら、わたしたち自身と身近な人々にとっての、希望の源泉となることができるでしょう。
