『ディレクシー・テ』レオ14世、貧しい人への愛から切り離せぬ信仰
サルバトーレ・チェルヌツィオ-バチカン市国
『ディレクシー・テ』、「わたしはあなたを愛した」。キリストの愛は、病者のケア、奴隷制との闘い、暴力の被害を受けた女性たちの擁護、教育を受ける権利、移民への支援、施し、公正性といった、貧しい人々への愛において具現化される。レオ14世は、ご自身の初めての使徒的勧告に署名された。121節からなる同文書は、貧しい人々をめぐる、過去150年における教会の教えを再確認するものである。10月4日、聖フランチェスコの祝日に署名されたこの文書をもって、アウグスティヌス会士である教皇は、こうして、ヨハネ23世の『マーテル・エト・マジストラ』、パウロ6世の『ポプロールム・プログレッシオ(諸国民の進歩)』、ヨハネ・パウロ2世が堅固にした“教会と貧しい人々との優先的な関係”、ベネディクト16世の『カリタス・イン・ヴェリターテ(真理に根差した愛)』、そして、フランシスコの在位中の基盤の一つとなった貧しい人々のための、貧しい人々と共にあるいたわりの姿勢といった、先任教皇たちがつけた道筋を自らも歩むことになった。
フランシスコが着手、レオ14世が再提示した文書
この使徒的勧告は、まさに教皇フランシスコが帰天前に起草に着手したものである。2013年のベネディクト16世の『信仰の光』をフランシスコが引き継ぎ完成させたように、今回もこれを完成させたのは後任の教皇、レオ14世となった。同使徒的勧告は、イエスの聖心をテーマにしたフランシスコの最後の回勅『ディレクシット・ノス(主はわたしたちを愛された)』の続編の性格を持っている。なぜなら、神の愛と貧しい人々に対する愛には、強い「結びつき」があるためである。貧しい人々を通して「神はいまだわたしたちに語りかけられます」とレオ14世は言う。
「貧しい人たちの傷ついた顔には、無実の人々の苦しみが刻まれています」(9)
貧困の“顔”
レオ14世、ロバート・フランシス・プレヴォストの勧告には、貧困の「さまざまな側面」が分析され、行動と考察のための多くのヒントが示されている。そこには「物的な生計手段を持たない者」の貧困、「社会的に疎外された者」の貧困、「道徳的」「精神的」「文化的」貧困などがある(9)。さらに、富を増大させながらも、公正性を増すことのない、経済の法則と並行して、「より微妙で危険な」(10)新たな貧困が多く存在している。
「公平性の欠如は、社会悪の根源です」(94)
殺す経済と切り捨ての文化
この観点から、レオ14世は「国連が貧困の撲滅をミレニアム開発目標の一つに掲げた」ことを「歓迎」している。しかし、目標到達までの道のりは長い。特に「殺す経済の独裁」(92)が支配し、「何百万もの人々が飢え死にすること、あるいは、人間としてふさわしくない状態で生き延びることを無関心に容認する」(11)、切り捨ての文化が根強い時代においてはなおさらである。
「実際、人権はすべての人に平等に保証されているわけではありません」 (94)
教皇が呼びかけるのは、「メンタリティーの転換」であり、すべての人間の尊厳が「明日ではなく、今、尊重される」ようにすることである。
移民の受け入れ
レオ14世は、移民問題に多くのスペースを割いている。その思いはシリアの小さなアラン・クルディ君のイメージから始まっている。彼の海岸での写真は世界中に広まった。レオ14世は、残念ながら、「同じような事件は、片隅のニュースとして、ますます重要視されなくなっています」(11)と記す。同時に、教皇は移民に対する教会の取り組みに言及する。
「教会は、母のように、歩む人々と共に歩みます。世界が脅威を感じる場所で、教会は子らを見つめます。壁が築かれる場所に、教会は橋を架けます…教会は、拒絶される移民一人ひとりの中で、キリストご自身が共同体の扉を叩いておられることを知っています」(75)
移民をめぐり、レオ14世は、前任者フランシスコの有名な“4つの動詞”、「受け入れる、保護する、促進する、統合する」を自らのものとしている。また、貧しい人々は「福音の師」であるという考え方も、フランシスコから引き継いでいる。
「貧しい人々への奉仕は、『上から下へ』行う行為ではなく、対等な立場での出会いです」(79)
イデオロギー、誤った政策、無関心
教皇はさらに、「排除、虐待、暴力」に苦しむ女性たちを「二重の貧困」に置かれていると指摘している(12)。そして、貧困そのものの原因を深く考察している。
「貧しい人々は、偶然や、暗く苦い運命によって存在するわけではありません。ましてや、貧しい人々の大半にとって、貧困は選び取った結果ではないのです。それにも関わらず、そのように主張し続ける人々がいます。それは思慮に欠け、残酷なことです」(14)。
時には、キリスト者自身が「世俗的なイデオロギーや、不当な一般化や誤った結論に導く政治・経済的傾向に影響された態度に感染する」ことがあると教皇は観察する。実際、「政府だけが彼らの世話をするべきだ、あるいは、彼らを困窮したままにして、むしろ働くことを教えるべきだ」と考える人々がいる(114)。その現れとして、施しはほとんど実践されず、軽視さえされている(115)。「キリスト者として、施しを放棄してはなりません」と教皇は訴えている。
「わたしたちは、貧しい人々の具体的な苦しみに触れるために、施しを実践する必要があります」(119)
一部のキリスト者の間には、最も恵まれない人々への取り組みがまったく見られないと、レオ14世は指摘している(112)。教皇はこうした傾向に注意するよう警告する。それは、「わたしたちの信仰と貧しい人々との間には、切り離せない絆がある」ためである(36)。それゆえ、こうした態度は「分裂」あるいは「霊的な世俗化」を招く危険がある(113)。
聖人、福者、修道会による証し
この無関心を埋め合わせるものとして、聖人や福者、宣教師たちの世界がある。教皇は、アッシジの聖フランシスコ、マザー・テレサ、聖アウグスティヌスなど、多くの聖人に言及している。たとえば、聖アウグスティヌスは「神を愛すると言いながら、貧しい人に憐れみを持たない者は偽っている」と述べた(45)。そして、教皇は、様々な修道会が、病者・孤児・寡婦・貧しい人々への支援、奴隷制の犠牲者の解放のために果たした役割を思い起こしている。
「これらの修道会の伝統はまだ終わりません。むしろ、現代の奴隷制、すなわち人身取引、強制労働、性的搾取、さまざまな形の依存に対して、新たな活動のあり方を生み出しています。キリスト教的慈愛は、具体的に実践される時に、解放する力となるのです」(61)
目覚めさせ告発する「声」
教皇は使徒的勧告の中で、貧しい人々の教育の重要性についても強調している。それは「義務」であり、単なる親切な行為ではない。教皇は、「多くの場合、疑われ、迫害さえされた」指導者たちによって率いられた民衆運動の闘争に言及している(80)。最後に、レオ14世は神の民全体に向けて、「様々な方法を通し、目覚めさせ、告発し、愚か者と思われるリスクに身を置いてでも上げる声を聞かせるように」と呼びかけている。
「不正義の構造は、善の力によって認識され、打ち壊されなければなりません」(97)
「わたしたち皆が、貧しい人々から福音宣教される必要があります」とレオ14世は述べ(102)、貧しい人々は単なる「社会問題」ではなく、「教会の中心そのもの」であると説いている(111)。
