「自らの傷跡をゆるしの保証として差し出すイエス」教皇一般謁見
教皇レオ14世は、10月1日(水)、バチカンの聖ペトロ広場で一般謁見を行われた。
謁見中の「わたしたちの希望、イエス・キリスト」をめぐるカテケーシスで、教皇は「III.イエスの過越 9.復活『あなたがたに平和があるように』(ヨハネ20,21)」をテーマに話された。
教皇によるカテケーシスの要旨は以下のとおり。
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親愛なる兄妹姉妹の皆さん
わたしたちの信仰の中心と希望の本質は、キリストの復活に深く根差しています。福音書を注意深く読む時、この神秘が、一人の人間、すなわち神の御子が、死者の間から復活されたためだけでなく、復活のためにとられたその方法によっても、驚くべきものであることに気づきます。実際、イエスの復活は、物々しい勝利でもなければ、敵に対する復讐や報復でもありません。それは、愛は大きな敗北を喫した後にも、止めることのできないその歩みを続けるために、再び立ち上がれることを素晴らしい形で証しするものです。
わたしたちが他者によって負わされた心の傷から立ち直る時、その最初の反応は怒りであったり、自分が受けた苦しみを誰かに償わせたいという感情であることがあります。復活されたキリストは、そのようには反応されません。陰府から出たイエスは、復讐を一切行われません。力を誇示する態度ではなく、柔和さをもって戻られ、いかなる傷よりも大きく、どのような裏切りよりも強い、愛の喜びを表されるのです。
復活された主は、ご自身の優位性を主張したり、明言したりする必要をまったく感じておられません。イエスはご自分の友、すなわち弟子たちの前に姿を現されます。そして、弟子たちにご自分を受け入れるタイミングを強要することなく、極度に控えめな態度でそれを行なわれます。イエスの唯一の願いは、弟子たちとの交わりを取り戻し、彼らが罪の意識を乗り越えられるように助けることでした。それは、恐れに閉じこもった友人たちの前にイエスが現れる、高間の場面によく表れています。それはイエスが類いまれなる力を見せられる時です。死の深淵に降り、囚われていた人々を解放された後、イエスは恐れに麻痺した者たちが閉じこもる部屋に入られ、誰も期待すらしなかった贈り物、すなわち、平和をもたらされたのです。
イエスの挨拶は、単純で、普通とさえ言えるものでした。「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20,21)。しかし、それは美しい行為を伴っていました。その美しさは衝撃的でさえあるものです。イエスはご受難の傷跡が残る手と脇腹を弟子たちにお見せになりました。あの劇的な場面でご自分を否定し、見捨てた者たちの前で、なぜ、ご自身の傷跡をすすんで見せられたのでしょうか。なぜその苦しみのしるしを隠し、恥である傷をこれ以上広げないようにしないのでしょうか。
それにも関わらず、福音書は、「弟子たちは、主を見て喜んだ」(ヨハネ20,20)と語ります。その理由は深いものです。イエスはご自身が受けたすべての苦しみと完全に和解されました。そこには恨みの影すらありません。傷を見せることは、弟子たちを非難するためではなく、どのような不誠実よりも強い愛を確認するために必要なことでした。わたしたちの愛が失われようとしたまさにその時、神は背を向けられなかった証しです。神はわたしたちを見捨てられませんでした。
このように、主はありのままの無防備な姿を見せられます。そこには要求も、強要もありません。主の愛は人を卑しめることがありません。それは、愛のために苦しみ、今ではその苦しみが無駄ではなかったと断言できる人の平安です。
これに対し、わたしたちはプライドのために、あるいは弱く見えることを恐れ、傷を隠したがります。「たいしたことではない」「過ぎたことだ」と言いつつも、自分を傷つけた裏切りと本当に和解したわけではないのです。時には、弱く見られたり、再び苦しむ危険を避けるために、ゆるすことの困難を隠そうとします。しかし、イエスは違います。イエスは自らの傷跡をゆるしの保証として差し出します。そして、復活とは過去の抹消ではなく、いつくしみの希望への変容であることを示されるのです。
そして、主は繰り返されます。「あなたがたに平和があるように」。さらにこのように付け加えられます。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ20,21)。イエスは、これらの言葉を通し、権力というよりも、むしろ責任としての任務を使徒たちに託されます。それはすなわち、世において和解の道具となることでした。イエスはまるでこう言われるかのようです。「挫折とゆるしを経験したあなたがたでなくて誰が、御父のいつくしみ深い御顔を告げ知らせることができるだろうか」と。
イエスは使徒たちに息を吹きかけ、聖霊を授けられました(同上20,22)。それは、父への従順において、また十字架に至るまでの愛においてイエスを支えたのと同じ聖霊でした。使徒たちは、聖霊を受けたその時から、自分たちが見聞きしたことをもはや黙っていることはできませんでした。彼らが知ったこと、それは、神はゆるされ、立ち上がらせ、信頼を取り戻させてくださるということでした。
これが教会の使命の本質です。他者に権力を振るうことではなく、まさに愛されるに値しない時に、愛された者の喜びを伝えることです。キリスト教共同体を生み、成長させた力、それは、いのちに立ち返り、それを他者に捧げる素晴らしさを見出した人々です。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、わたしたちもまた遣わされています。主はわたしたちにもその傷を示され、こう言われます。「あなたがたに平和があるように」と。いつくしみによっていやされた傷跡を見せることを恐れてはなりません。恐れや罪の意識のために閉じこもっている人々に近づくのをためらわないでください。聖霊がその息吹をもって、わたしたちをあらゆる敗北よりも強いこの平和と愛の証人としてくださいますように。
