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教皇レオ14世 2025年10月4日 聖年の巡礼者のための謁見で 教皇レオ14世 2025年10月4日 聖年の巡礼者のための謁見で  (@Vatican Media)

「希望するとは、選択すること」教皇、聖年の謁見で

教皇レオ14世は、10月4日(土)、聖年の巡礼者のための謁見を行われた。

 教皇レオ14世は、10月4日(土)、聖年の巡礼者のために、週末の謁見を行われた。

 聖ペトロ広場には、およそ3万人の巡礼者が訪れ、レオ14世と出会い、その言葉に耳を傾けた。

 この日、教皇は「希望」をテーマにした聖年のカテケーシスで、「希望するとは、選択すること。アッシジのクララ」をテーマに講話された。

 福音朗読に続く、教皇の講話の要旨は以下のとおり。

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福音朗読

「(イエスは、弟子たちに言われた)『どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。』金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」(ルカ16,13-14)

教皇の講話

 先ほど読まれた福音(ルカ16,13-14)の中で、福音記者は、ある人々がイエスの話を聞いた後で、イエスをあざ笑ったことに気づいています。これらの人々の目には、イエスの清貧についての教えは、馬鹿げたものに見えたのです。より厳密に言うならば、彼らの金銭への執着ゆえに、まさに痛いところを突かれたように思われたのです。

 愛する友の皆さん、希望の巡礼者として皆さんはここに来られました。この聖年は具体的な希望の時、わたしたちの心がゆるしといつくしみを見出し、すべてに新たな始まりを可能にする時です。聖年は、異なる形の富の分配、土地がすべての人のものになる可能性への希望にも開かれています。なぜなら、現実はそうではないからです。この年、わたしたちは、誰に仕えるか、正義か不正義か、神か富かを選択しなければなりません。

 希望するとは、選択すること。これは少なくとも二つのことを意味します。より明らかなことは、わたしたちが変われば、世界も変わるということです。巡礼を行うのはそのためです。巡礼とは一つの選択です。聖なる門は、新たな時代へと入るために、くぐり抜けるのです。二つ目の意味は、より深く、洞察的です。希望するとは、選択すること、なぜなら、選択しない人は、希望を持たないからです。霊的な悲しみ、すなわち無気力がよく引き起こすことの一つは、何も選択しない、ということです。そのため、それを感じる人は、死よりもひどい、内的怠惰に囚われてしまいます。それに対し、希望するとは、選択することなのです。

 今日は、神の恵みによって、選択を可能とした女性を思い起したいと思います。それは、勇気を持った、流されない若い女性、アッシジのクララです。まさに聖フランシスコの祝日に、聖クララについて話せることをうれしく思います。フランシスコは福音的な清貧を選択したことで、自身の家族と決別せざるを得なかったことは知られています。しかし、フランシスコは男性でした。フランシスコの選択は世間に驚きを与えましたが、クララの選択が人々に与えた衝撃はさらに大きいものでした。一人の若い女性が、フランシスコのようになることを望み、女性として、あの兄弟たちのように自由に生きたいと願ったのです。

 クララは、福音が求めているものを理解しました。しかし、キリスト教徒の町と自ら認める所でも、福音を真正面から受け止めることは、革命であるかのように見えました。そこで、今日のテーマのように、クララには選択する必要が生じました。クララは選び取りました。それは、われわれに大きな希望をもたらすものです。願いに従うクララの勇気は、二つの結果をもたらしました。一つ目は、この地域の多くの少女たちも、同じ勇気を見出し、イエスの貧しさ、すなわち「真福八端」の人生を選んだことです。二つ目は、その選択が燃え上がる枯れ草のように一時的なものではなく、時を超え、現代に至るまで続いていることです。クララの選択は、世界中で召命の選択に影響を与え、それは今日にまでもたらされています。

 イエスは、二人の主人に仕えることはできない、と言われます。このように若々しい教会は、若者たちをひきつけます。アッシジのクララは、福音が若者たちを魅了するということを思い出させてくれます。今日でもそれは変わりません。若い人たちは、自身の道を選び取り、その選択の結果を引き受ける人を好みます。そして、こうした人々は、他の人にも自分も選択したいという望みを起こします。それは聖なる模倣です。それは「コピー」になることではありません。福音を選ぶ時、それぞれが自分自身を選ぶのです。自分自身を失い、自分自身を見つけるのです。経験がそれを証しすることになるでしょう。

 さあ、若者たちのために祈りましょう。そして、金銭や自分自身に仕えず、神の御国とその正義に仕える教会になるように祈りましょう。聖クララのように、勇気をもってこれまでと違う形で町に生きる教会。これが希望をもたらすのです。

04 10月 2025, 21:59

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