キリストの復活を通して死を考察する、教皇一般謁見
教皇レオ14世は、12月10日(水)、バチカンの聖ペトロ広場で一般謁見を行われた。
教皇はこの日、「わたしたちの希望、イエス・キリスト」をめぐる謁見中のカテケーシスで、「IV.イエスの復活と今日の世界の挑戦 7.イエス・キリストの復活:わたしたちの死をめぐる問いへの最終的回答」をテーマに講話された。
教皇によるカテケーシスの要旨は以下のとおり。
**********
親愛なる兄妹姉妹の皆さん
死の神秘は、人間に常に深遠な問いを投げかけてきました。死は、最も自然なことであると同時に、最も不自然な出来事に見えるからです。この地上に生きるすべてのものは死すがゆえに、それは自然なことでしょう。一方で、わたしたち自身や愛する人々のために感じる、生と永遠への渇望が、死を「断罪」「逆説」のように見せるがゆえに、それは不自然なことに思われるのです
古代民族の多くは、至上の神秘へと旅立つ者を送り出し、その記憶を留めるために、死者をめぐる信心に関連した儀式やしきたりを発展させました。しかし、今日では、それとは異なる傾向が見られます。わたしたちの感性や平穏を乱さないために、死は一種のタブー、遠ざけるべき出来事、人前で避ける話題と考えられています。わたしたちに先立った故人たちが復活を待って眠る墓地を訪れることさえも、しばしば避けたがるのです。
死とは一体何でしょうか。それは本当にわたしたちの人生が行き着く結論なのでしょうか。それを自らに問うのは人間だけです。死ななければならないことを知っているのは人間だけだからです。しかし、それを自覚しているからといって、死から逃れられるわけではありません。むしろ、他のすべての生き物に比べて、ある意味で「重荷」を背負っているとも言えます。もちろん、動物たちは苦しみ、死を間近に察知していますが、死が運命の一部であることは知りません。動物たちは生の意味、目的、結果について問いただしたりはしません。
この点から言えば、わたしたちは逆説的で不幸な存在であると考えざるを得ません。なぜなら、わたしたちは死ぬという事実だけでなく、いつ、どのようにかはわからなくても、それが必ず起きることを確信しているからです。わたしたちは自覚的であると同時に、無力さに気づきます。死という問題や現実を前にした、度々の拒否や逃避は、ここから生じているのでしょう。
聖アルフォンソ・マリア・デ・リゴリは、その有名な著作『死への備え』の中で、死の教育的価値について考察し、死を人生の偉大な師として強調しています。死の存在を知り、それを特に深く考察することは、自分の人生を真にどう生きるかを選択することを教えてくれます。天国のために有益なものを理解するべく祈り、わたしたちを儚いものに縛りつける余計なものを手放すこと。それが、この世の人生が永遠への準備であることの自覚のうちに、真に生きる秘訣なのです。
それでもなお、今日の多くの人類学的見地は、内在的な不死を約束し、技術による地上の寿命の延長を理論化しています。それは現代の課題に浮上しつつあるトランスヒューマニズム的筋書きです。死は科学によって本当に克服できるのでしょうか。さらに、その同じ科学は、死のない人生が幸せな人生でありうると保証できるのでしょうか。
キリストの復活という出来事は、死は生と対立するものではなく、永遠の命への移行として生を構成する一部であることを私たちに明らかにしています。イエスの復活は、苦しみと試練に満ちたこの時代に、死後の完全なる喜びを予感させてくれます。
福音記者ルカは、暗闇がカルワリオを包んだその午後の終りに、闇の中の光の前兆を捉えるかのように、こう記しています。「その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた」(ルカ23,54)。復活祭の朝に先立つその光は、まだ閉ざされ沈黙しているかのように見える空の闇にすでに輝いています。土曜日の光は、初めてかつ唯一、土曜日の後の夜明け、すなわち復活の新たな光を告げています。この出来事だけが、死の神秘を完全に解き明かすことができるのです。この光の中で、そしてこの光の中でのみ、わたしたちの心が望み、願っていることが真実となるのです。すなわち、死は終わりではなく、完全な光へと、幸いな永遠へと至る通過点であるということです。
主は、死という大きな試練においてわたしたちより先を歩まれ、神の愛の力によって勝利のもとに復活されました。こうして、主は、わたしたちを待つ永遠の安息の地、住処を用意してくださいました。闇も矛盾もない、満ちあふれるいのちをわたしたちに与えてくださいました。
愛のために死に、復活された主のおかげで、わたしたちは聖フランシスコと共に、死を「姉妹」と呼ぶことができます。復活の確かな希望をもって死を待つことは、永遠に消え去る恐れからわたしたちを守り、尽きることのないいのちの喜びへと備えさせるのです。
