「心の真の終着地は、愛である神」教皇、一般謁見で
教皇レオ14世は、12月17日(水)、バチカンの聖ペトロ広場で一般謁見を行われた。
教皇はこの日、「わたしたちの希望、イエス・キリスト」をめぐる謁見中のカテケーシスで、「IV.イエスの復活と今日の世界の挑戦 8.イエス・キリストの復活:落ち着くことのない心の終着地、主の復活」をテーマに講話された。
教皇によるカテケーシスの要旨は以下のとおり。
**********
親愛なる兄妹姉妹の皆さん
人間生活は、何かをし、行動するようにと駆り立てる、絶え間ない動きに特徴づけられています。今日、非常に多様な分野において、最良の成果を得るためにいたるところでスピードが求められています。わたしたちの生活のこうした一面を、イエスの復活はどのように照らしてくれるでしょうか。イエスの死への勝利に与る時、わたしたちは安らぐことができるのでしょうか。信仰は答えます。そうです、わたしたちは安らぎを得るのです。それは怠惰になることではありません。神の安息、すなわち平安と喜びの中に入るのです。ならば、わたしたちはただ待たねばならないのでしょうか、それとも今から自分を変えることができるのでしょうか。
わたしたちは多くの活動に没頭しつつ、それでいて必ずしも満足を得られるわけではありません。われわれの活動の多くは、実用的で具体的な事柄に関するものです。多くの責任を負い、問題を解決し、困難に立ち向かわねばなりません。イエスもまた、人々や生活に深く関わられ、寛大に、最後の最後まで自らを捧げ尽くされました。それでも、わたしたちは時に、忙しければ忙しいほど、満たされるどころか、それが渦となって、わたしたちの目を回し、平安を奪い、人生にとって本当に大切なものを十分に体験することを妨げることに気づきます。こうなると、われわれは疲れ切ってしまい、満たされることがありません。人間存在の究極的な意味を解き明かすにいたらない、無数の実務的な問題に時間が費やされているかのように見えてきます。多忙な日々の終わりに、わたしたちは虚しさを感じることがあります。それはなぜでしょうか。わたしたちは機械ではなく、「心」を持っているからです。いや、むしろ、わたしたち自身が心なのだと言えましょう。
心はわたしたちの人間性を象徴するものであり、考え、感情、そして願望の総体、われわれ人間の目に見えない中心です。福音記者マタイは、イエスのこの美しい言葉を引用しながら、心の大切さについて考えるよう招いています。「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」(マタイ6,21)。
真の宝が守られるのは心の中です。それはこの世の金庫や、膨大な金融投資の中で守られるのではありません。今日ほど、金融投資が過熱し、不当な集中を見せ、無数の人々のいのちの血の犠牲と神の被造物の破壊と引き換えに偶像化されていることはありません。
これらの面について考察するのは重要です。なぜなら、わたしたちが絶えず直面する数多くの義務において、一見成功しているように見える人々にでさえ、消耗や、時には絶望、意味の喪失が生じる恐れがあるからです。これに対し、主の復活の光に照らし人生を読むこと、復活されたイエスと共に人生を見つめることは、わたしたち人間の本質、すなわちわたしたちの心、その「落ち着くことのない心」への入口を見出すことを意味します。聖アウグスティヌスはこの「落ち着かない」という形容詞をもって、人間を完全な実現へと向かわせる飛躍の力を理解させようとしています。『告白』の冒頭で、アウグスティヌスはこう記します。「主よ、あなたはわたしたちをあなたのために造られました。わたしたちの心は、あなたの中に安らぐまでは、落ち着くことがありません」(『告白』I, 1, 1)。
この落ち着かなさは、わたしたちの心が無秩序に、目的や目標もなく、ただ偶然にまかせて動くことのしるしではありません。落ち着つくことのない心は、究極の目的地、すなわち「帰るべき家」へと向かっているのです。心の真の終着地は、この世の富の所有にはなく、心を完全に満たすもの、すなわち神の愛、さらに言えば、愛である神を得ることにあります。しかし、この宝は、人生の途上で出会う隣人を愛することによってのみ、見出すことができるのです。その隣人とは、心を開き、自らを与えるようにと招きながら、わたしたちの心を促し、問いかける、生身の人間としての兄弟姉妹です。この隣人は、スピードを落とし、彼の目を見つめ、時には計画を、ある時は方向さえ転換するように求めることがあります。
親愛なる皆さん、これが人間の心の動きの鍵です。その存在の源に立ち返り、決して失われず、決して失望しない喜びを享受することです。誰もが偶然や、過ぎ去るものを超越した意味なくして生きることはできません。人間の心は、希望を持つこともなく、足りない存在ではなく、満たされた存在であるために造られたことを知らずに生きることはできないのです。
イエス・キリストは、ご自身の受肉、受難、死、そして復活を通して、この希望に確固たる基礎を据えられました。落ち着くことのない心は、自分自身を創造したこの愛の力の中に入って行くならば、決して欺かれることはないでしょう。その終着点は確かです。いのちは勝利し、それは日々のあらゆる死の中でキリストにおいて勝利し続けるでしょう。これがキリスト教的希望です。この希望を与えてくださった主に、いつも賛美と感謝を捧げましょう。
