教皇「四旬節を輝かしい旅路として見つめる」
教皇レオ14世は、2月22日(日)、正午の祈りを巡礼者らと共に唱えられた。
復活祭前の準備期間、「四旬節」に入って最初の日曜日、教皇は説教で、この日の福音朗読箇所、マタイ福音書4章の、イエスが悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれたエピソード(マタ4・1-11)を取り上げながら、「輝かしい旅路」としての四旬節、悔い改めがもたらす力について話された。
教皇の説教は次のとおり。
**********
親愛なる兄弟姉妹の皆様。こんにちは。
四旬節第1主日の今日、福音は、イエスが聖霊に導かれて荒れ野に行き、悪魔から誘惑を受けたことを語ります(マタ4・1-11参照)。イエスは、40日間断食した後、人間としての重荷を感じます。すなわち、肉体的なレベルでの飢え、道徳的なレベルでの悪魔の誘惑です。イエスは、わたしたちすべてが歩みの中で体験するのと同じ苦しみを味わいますが、悪魔に抵抗することによって、どうすれば悪魔の欺きと策略に打ち勝つことができるかをわたしたちに示します。
典礼はこのいのちのことばによって、四旬節を輝かしい旅路として見つめるようにわたしたちを招きます。わたしたちはこの旅路において、祈りと断食と施しにより、自らの人生の独自の傑作を実現するためにあらためて主と協力することができるのです。それは、主によって、汚れを拭い去り、わたしたちの人生の中で罪が造り出しうる傷をいやしていただき、まことの幸福の唯一の源泉である完全な愛に至るまで、主の美しさのすべてを花開かせるように努めることです。
当然のことながら、それは厳しい道のりです。失望したり、富や名声や権力といった努力のいらない満足を得る道に引き寄せられる危険もあります(マタ4・3-8参照)。しかし、イエスご自身も誘惑を受けたこれらのものは、わたしたちがそのために造られた喜びのみじめな代替物にすぎず、最終的に、不可避的かつ永遠に、わたしたちを不満足で、安らぎを得ず、空虚なままにします。
そのため教皇聖パウロ六世は次のように教えました。悔い改めは、人間性を貧しくするどころか、むしろ、わたしたちが「主における愛と自己放棄を目的とする」(使徒憲章『ペニテミニ(1966年2月17日)』一[Paenitemini])地平へと進むために人間性を豊かにし、清め、強めます。実際、悔い改めはわたしたちに自分の限界を自覚させるとともに、わたしたちがこの限界を乗り越え、神の助けによって、ますます深く神との交わりとわたしたちの間の交わりを生きるための力を与えてくれます。
この恵みのときに、祈りとあわれみのわざとともに、悔い改めを惜しみない心で実践してください。沈黙に時を与えてください。テレビ、ラジオ、スマートフォンを少しの間消してください。神のことばを黙想し、秘跡に近づいてください。わたしたちの心に語りかける聖霊の声に耳を傾けてください。また、家庭、職場、地域社会で互いに耳を傾け合ってください。孤独な人、とくに高齢者、貧しい人々、病者のために時間をささげてください。過剰なものを捨て、必要なものに事欠く人と節約したものを分かち合ってください。そうすれば、聖アウグスティヌスがいうとおり、「謙遜と愛、断食と施し、節制とゆるし、善を与えて悪を報いないこと、悪を遠ざけ、善を行うことによってささげるわたしたちの祈り」(『説教』[Sermo 206, 3])は、天に届き、わたしたちに平和を与えることでしょう。
試練の中にある子らをつねに助けてくださる母であるおとめマリアにわたしたちの四旬節の歩みをゆだねます。
(カトリック中央協議会訳)