教皇:神のわざを裁かず、祈り、謙遜に耳を傾ける
教皇レオ14世は、8月30日(日)、カステルガンドルフォの離宮前の広場で正午の祈りの集いを行われた。
年間第22主日、教皇は祈りに先立つ説教で、この日の福音朗読箇所、マタイ福音書中の、イエスがご自身の受難と死と復活を予告する場面(16・21-27)を取り上げられた。
教皇の説教は以下の通り。
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親愛なる兄弟姉妹の皆様。ようこそおいでくださいました。こんにちは。
今日の福音は、イエスが弟子たちに間もなく訪れようとしているご自身の過越の神秘を示したことを語ります。イエスはいわれます。メシアは「必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」(マタ16・21)。
イエスが述べられたことは、その助けによって敵を打ち負かして踏みにじる(詩108・14参照)、力ある勝利者としてのメシアについて弟子たちが期待していたこととかけ離れたものでした。弟子たちはイエスと過ごした日々の中で、その多くのわざとことばによってすでに驚かされていました。しかし、この最後のメッセージは本当にすべての予想を超えるものでした。とくにペトロは異を唱え、イエスをいさめていいました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(22節)。
少し前にペトロはイエスを「メシア、生ける神の子」(16節)と認めていました。しかし、このとき聞かされたことばに驚き、おそらく失望したペトロは、行ったばかりのすばらしい信仰告白と対照的に、イエスをいさめます。ペトロはこういおうとしたように思われます。「わたしは確かにあなたがメシアだと信じますが、世が救われるのはこのようなしかたによってではありません」。ペトロは熱心で、確かに真実の愛に促されていましたが、にもかかわらず、このことはわたしたちを考えさせます。
実際、わたしたちにとっても、神の道を理解し、受け入れるのは必ずしも容易なことではありません。とくにそれがわたしたちの道とかけ離れている場合はなおさらです。そのようなとき、わたしたちは、信仰の論理に反して、次のように考える誘惑に駆られます。主は間違っておられる、あるいは、もっとひどい場合には、主はわたしたちに耳を傾けることもなければ、わたしたちに関心をもたれることもないと。激情的でありながら、こうした不安に駆られたペトロは、わたしたちに二つの重要なことを教えてくれます。
第一はこれです。このようなときにあっても、主と対話するのをやめず、主がわたしたちに求めておられることを理解するのが難しいことを、信頼をもって主に示さなければなりません。
第二はこれです。神のわざを裁かず、むしろ、たとえそれがわたしたちの期待に反していても、神がみわざを通して示されることに、祈りながら謙遜に耳を傾けなければなりません。
使徒の首位者であるペトロの偉大さは、このことにおいても示されます。
イエスはペトロにこたえていわれます。「サタン、引き下がれ」(23節)。そして、ペトロと弟子たちに説明していわれます。わたしについて来るには、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従わなければならないと(24節参照)。ペトロはまさにそうしました。イエスのことばを聞いた後、ペトロはこの挑戦を受け入れ、殉教に至るまで、全生涯をもって、自らのあがない主と認めたキリストのことばに忠実にとどまったのです。
それゆえ、信仰と祈りの生活において、ペトロと同じ誠実さをもてるように主に願おうではありませんか。心が混乱しているときも、自分が本当に感じていることを主に謙遜に打ち明けると同時に、わたしたちの期待を超えて主がわたしたちに求めることを受け入れる、ペトロの従順さを培うことができますように。
御子イエスの十字架のもとまで神の計画に従順に従ったマリアがわたしたちを助けてくださいますように。
(カトリック中央協議会訳)